ishibashihiroki’s blog

経済アナリスト

56歳からコードを書き始めて食べていく方法

石橋広基

石橋広基


私は56歳、最近プログラミングを始めたんだ。

なぜかって?やりたいからに決まっているじゃないか。ようやく最近コツをつかめてきてね。でもコツをつかめたからといって簡単にはいかない。正直なかなか手こずっている。でもいいんだ。
アルゴリズムに挑戦して我を忘れるのは楽しいし、まだテストしたい事があって「あと数分だけ」と繰り返し自分に言い聞かせるのもいい。「今度こそ上手くいったかも、、」とドキドキしてから「やったぞ!ついに動いた。」となる瞬間も大好きだ。
でもこんな私には今まで趣味と呼べるものが何ひとつなかった。自分に見返りがない事に時間を費やすのは嫌だったんだ。ただ楽しみのためだけに何かをするのが好きじゃなかったのさ。休みの日にやる事といったら、ちょっとした小遣い稼ぎになるような事ばかりだった。
オーケー。もちろんコーディングだって小遣い稼ぎさ。上手くやればかなり稼げる。これだってあなたから見れば今まで私がやって来たことと同じに見えるんだろう。
ところで、56歳のプログラミング初心者としての自分を完全に受け容れられるようになる前の私は、クリティカル・インナー・セルフ[分身のような内的自己](長いのでCISと呼ぼう)と上手く付き合わなければならなかった。
プログラミングは学ぶ事が多いから、このCISが始終耳元で囁いてくれなければ到底続かないだろう。このCISという奴はなかなか手強くて、コイツを言い負かす事が出来れば誰とでも上手く仕事を出来そうな感じだった。
CIS:なぜあんたみたいな老いぼれがプログラミングの勉強を始めたんだい?
私:老い先が短いのになんで今更プログラミングを始めたのかと本当は聞きたいんだろう。プログラミングを学んだって残された時間がそれ程ないから、あまり稼げないと言いたいんだな。ハッキリそう聞けばいいじゃないか。
そうだな、私はアメリカ人だから平均寿命は78.8歳だ。とするとまだ22.8年近く残っていることになる。20歳の人間からするとそんなに長くはないだろう。でも私は56歳なんだし、まだまだ道で踊れるくらい元気だ。(それに考えてみれば、私は56歳まで元気に過ごせた訳なんだから、この調子なら78歳までもいけそうだ。まぁどうでもいい話だが。)
さて、それじゃ私が怠け者でフルスタック・エンジニアを目指すFree Code Campの1年コースに4年かかったとしよう。すると駆け出しのエンジニアになった頃には私は60歳だ。
年齢のせいもあって職探しにさらに2年かかったとしよう。さらに、そうだな、首を切られるのが70歳と仮定してみようか。とすると経験を積む時間が8年ある事になる。
それだけの時間があればかなり上達もするだろう。それに今まで長く生きた経験から「隣の芝生は青い」ものだとよく分かっている。だから、簡単に転職などせずに最初に雇ってくれた人のもとで長くやれると思う。でも、20歳の若者が今時8年も同じ所で働けるだろうか?
CIS:でも今あんたが稼いでるような額を払う人なんていないだろ。
私:それはプログラミングを学んでいるかに関係ない質問だね。でも、お前が何を言いたいかは分かるよ。おそらく私が職につけたとしても初心者レベルの仕事しか入って来ないだろうし、給料は今より少なくなるはずだ。
でも、既に今の段階で私の給料は5年前に比べると減ってきている。この5年、経験の方はますます積めているというのに。それに今の仕事そのものが消えてなくならない保証はどこにもない。そして、仕事がなくなってしまえば、いずれにせよ新しい勤め先を見つけなければならなくなる。自分の年の事も考えると、、、給料が大幅に下がっても文句は言えないだろう。
それならむしろスキルを身につけ、ポートフォリオを作り、初心者レベルの仕事であってもより多く稼げる可能性のある道に進むか、頑張って職探しをしてフリーランスの仕事でも見つけようと思っている。
CIS:でもテック企業は年寄りではなく大学を出たての若造を雇いたがるものじゃないの?
私:それは大した問題じゃないな。私はシリコンバレーに住みたくもないし、巨大なテック企業で働くつもりもないから。
ある統計によると、2020年までにプログラマーはさらに100万人近く必要になるそうだ。これら全てが「ビッグ4」と呼ばれるGoogleFacebookAmazon、そしてMicrosoftで働くわけではない。実際、ほとんどの新たなプログラミングの仕事はテクノロジー業界以外で生まれるだろう。
私が最初にコンピューターの仕事をしたのは病院でだった。私自身はプログラミングが出来なかったけれど、IT部門のほとんどがプログラマーだった。この話は何と1982年の事なんだよ。
CIS:なるほど。それでどうやって仕事を見つけるつもりなんだい?
私:まず何より真っ先に手をつけるつもりなのは、出来るだけ多くの仕事に申込みをして、多くの採用担当者とネットワークを築くことだ。数多くの面接を受けられればそれだけ可能性は増すし、喜んでそういう挑戦に挑もうと思ってる。
2000年以前の輝かしいキャリア?そういったもの全部プログラミングの仕事と無関係だから履歴書にも書けない。
でもいったん面接の場に行けば、好々爺のように振舞うつもりはない。志願者の1人として、プログラミングへの情熱ともっと学びたいという意欲があるのは他の志願者と同じだ。そういう場では本来の自分以上の見せかけは出来ない。それに何より大事なコードやその他のテストもある。
間違いなく幾つかの面接では失敗するだろう。でも幸い、ソフトウェア開発者を雇っている会社は他にも色々ある。だから諦めず努力するつもりだ。
CIS:プログラミングのチームは若者ばかりだぞ。どうやって周りに慣れていくつもりなんだい?
私:「慣れる」というのが、「彼らの仲間になる」という意味なら、確かにお前の言う通りだろう。私は「慣れ」るつもりはない。
今の仕事では、毎日職場の誰かが私に新しい知識を教えてくれる。だから、しっかり聞いているんだ。何でもかんでもとやかく社内のあれこれを知りたいとは思わないし。でも、それでも上手くいかないようなら、もうやれないと認めるよ。
この36年間、どの仕事でもずっとそういう風にやって来たんだ。
CIS:まずまずの仕事があるんだから、それで満足したらどうだい?その仕事こそが進むべき道なんだよ。特にあなたの年齢を考えると。
私:満足する?遅すぎだな。もう私は自分の生き方を「再構築」したよ。
プログラミングを学ぶとやる気と元気が出てくるんだ。セカンドキャリアに向けて頑張っていると、日々の仕事の辛さを乗り越える事が出来る。
それにお前は60歳、70歳、さらにもっと先まで生きるかもしれないわたしがどんな道に進むのがベストか本当に分かっているのかい?私自身全く分かっていないんだぞ。
CIS:今やってる事全てが時間の無駄ではないと言い切れるのかい?
私:本当はこう聞きたいんだろう?「もしプログラミングを学んだ後でフルタイムの給料をもらえなかったらどうするつもりなのか?」と。
私の答えはこうだ。
「だから何だ?」
それなりの給料はもらえるだろうし、何かをする時間もまだある、プログラミングを上達する余地もまだある。他にも、こんなやり方もある。
ウェブ・アプリを作ってファンやフォロワーを増やす。それから価値ある課金サービスを生み出す。
ローカルビジネスを支援するウェブ・ビジネスを始める。
プログラミングのノウハウと、元からあるSaaS APIの知識を組み合わせてニッチなコミュニティー向けのサーヴィスを作る。
言い方を変えると、アイデアの生み出し方を学び、ユーザーに価値あるサーヴィスを提供し、そこから収入を得るという方向性もあるということだ。
フルタイムの仕事があろうとなかろうと、これは出来る。
だから私は56歳からコードを書き始めたんだ。

56歳からコードを書き始めて食べていく方法

私は56歳、最近プログラミングを始めたんだ。
なぜかって?やりたいからに決まっているじゃないか。ようやく最近コツをつかめてきてね。でもコツをつかめたからといって簡単にはいかない。正直なかなか手こずっている。でもいいんだ。
アルゴリズムに挑戦して我を忘れるのは楽しいし、まだテストしたい事があって「あと数分だけ」と繰り返し自分に言い聞かせるのもいい。「今度こそ上手くいったかも、、」とドキドキしてから「やったぞ!ついに動いた。」となる瞬間も大好きだ。
でもこんな私には今まで趣味と呼べるものが何ひとつなかった。自分に見返りがない事に時間を費やすのは嫌だったんだ。ただ楽しみのためだけに何かをするのが好きじゃなかったのさ。休みの日にやる事といったら、ちょっとした小遣い稼ぎになるような事ばかりだった。
オーケー。もちろんコーディングだって小遣い稼ぎさ。上手くやればかなり稼げる。これだってあなたから見れば今まで私がやって来たことと同じに見えるんだろう。
ところで、56歳のプログラミング初心者としての自分を完全に受け容れられるようになる前の私は、クリティカル・インナー・セルフ[分身のような内的自己](長いのでCISと呼ぼう)と上手く付き合わなければならなかった。
プログラミングは学ぶ事が多いから、このCISが始終耳元で囁いてくれなければ到底続かないだろう。このCISという奴はなかなか手強くて、コイツを言い負かす事が出来れば誰とでも上手く仕事を出来そうな感じだった。
CIS:なぜあんたみたいな老いぼれがプログラミングの勉強を始めたんだい?
私:老い先が短いのになんで今更プログラミングを始めたのかと本当は聞きたいんだろう。プログラミングを学んだって残された時間がそれ程ないから、あまり稼げないと言いたいんだな。ハッキリそう聞けばいいじゃないか。
そうだな、私はアメリカ人だから平均寿命は78.8歳だ。とするとまだ22.8年近く残っていることになる。20歳の人間からするとそんなに長くはないだろう。でも私は56歳なんだし、まだまだ道で踊れるくらい元気だ。(それに考えてみれば、私は56歳まで元気に過ごせた訳なんだから、この調子なら78歳までもいけそうだ。まぁどうでもいい話だが。)
さて、それじゃ私が怠け者でフルスタック・エンジニアを目指すFree Code Campの1年コースに4年かかったとしよう。すると駆け出しのエンジニアになった頃には私は60歳だ。
年齢のせいもあって職探しにさらに2年かかったとしよう。さらに、そうだな、首を切られるのが70歳と仮定してみようか。とすると経験を積む時間が8年ある事になる。
それだけの時間があればかなり上達もするだろう。それに今まで長く生きた経験から「隣の芝生は青い」ものだとよく分かっている。だから、簡単に転職などせずに最初に雇ってくれた人のもとで長くやれると思う。でも、20歳の若者が今時8年も同じ所で働けるだろうか?
CIS:でも今あんたが稼いでるような額を払う人なんていないだろ。
私:それはプログラミングを学んでいるかに関係ない質問だね。でも、お前が何を言いたいかは分かるよ。おそらく私が職につけたとしても初心者レベルの仕事しか入って来ないだろうし、給料は今より少なくなるはずだ。
でも、既に今の段階で私の給料は5年前に比べると減ってきている。この5年、経験の方はますます積めているというのに。それに今の仕事そのものが消えてなくならない保証はどこにもない。そして、仕事がなくなってしまえば、いずれにせよ新しい勤め先を見つけなければならなくなる。自分の年の事も考えると、、、給料が大幅に下がっても文句は言えないだろう。
それならむしろスキルを身につけ、ポートフォリオを作り、初心者レベルの仕事であってもより多く稼げる可能性のある道に進むか、頑張って職探しをしてフリーランスの仕事でも見つけようと思っている。
CIS:でもテック企業は年寄りではなく大学を出たての若造を雇いたがるものじゃないの?
私:それは大した問題じゃないな。私はシリコンバレーに住みたくもないし、巨大なテック企業で働くつもりもないから。
ある統計によると、2020年までにプログラマーはさらに100万人近く必要になるそうだ。これら全てが「ビッグ4」と呼ばれるGoogleFacebookAmazon、そしてMicrosoftで働くわけではない。実際、ほとんどの新たなプログラミングの仕事はテクノロジー業界以外で生まれるだろう。
私が最初にコンピューターの仕事をしたのは病院でだった。私自身はプログラミングが出来なかったけれど、IT部門のほとんどがプログラマーだった。この話は何と1982年の事なんだよ。
CIS:なるほど。それでどうやって仕事を見つけるつもりなんだい?
私:まず何より真っ先に手をつけるつもりなのは、出来るだけ多くの仕事に申込みをして、多くの採用担当者とネットワークを築くことだ。数多くの面接を受けられればそれだけ可能性は増すし、喜んでそういう挑戦に挑もうと思ってる。
2000年以前の輝かしいキャリア?そういったもの全部プログラミングの仕事と無関係だから履歴書にも書けない。
でもいったん面接の場に行けば、好々爺のように振舞うつもりはない。志願者の1人として、プログラミングへの情熱ともっと学びたいという意欲があるのは他の志願者と同じだ。そういう場では本来の自分以上の見せかけは出来ない。それに何より大事なコードやその他のテストもある。
間違いなく幾つかの面接では失敗するだろう。でも幸い、ソフトウェア開発者を雇っている会社は他にも色々ある。だから諦めず努力するつもりだ。
CIS:プログラミングのチームは若者ばかりだぞ。どうやって周りに慣れていくつもりなんだい?
私:「慣れる」というのが、「彼らの仲間になる」という意味なら、確かにお前の言う通りだろう。私は「慣れ」るつもりはない。
今の仕事では、毎日職場の誰かが私に新しい知識を教えてくれる。だから、しっかり聞いているんだ。何でもかんでもとやかく社内のあれこれを知りたいとは思わないし。でも、それでも上手くいかないようなら、もうやれないと認めるよ。
この36年間、どの仕事でもずっとそういう風にやって来たんだ。
CIS:まずまずの仕事があるんだから、それで満足したらどうだい?その仕事こそが進むべき道なんだよ。特にあなたの年齢を考えると。
私:満足する?遅すぎだな。もう私は自分の生き方を「再構築」したよ。
プログラミングを学ぶとやる気と元気が出てくるんだ。セカンドキャリアに向けて頑張っていると、日々の仕事の辛さを乗り越える事が出来る。
それにお前は60歳、70歳、さらにもっと先まで生きるかもしれないわたしがどんな道に進むのがベストか本当に分かっているのかい?私自身全く分かっていないんだぞ。
CIS:今やってる事全てが時間の無駄ではないと言い切れるのかい?
私:本当はこう聞きたいんだろう?「もしプログラミングを学んだ後でフルタイムの給料をもらえなかったらどうするつもりなのか?」と。
私の答えはこうだ。
「だから何だ?」
それなりの給料はもらえるだろうし、何かをする時間もまだある、プログラミングを上達する余地もまだある。他にも、こんなやり方もある。
ウェブ・アプリを作ってファンやフォロワーを増やす。それから価値ある課金サービスを生み出す。
ローカルビジネスを支援するウェブ・ビジネスを始める。
プログラミングのノウハウと、元からあるSaaS APIの知識を組み合わせてニッチなコミュニティー向けのサーヴィスを作る。
言い方を変えると、アイデアの生み出し方を学び、ユーザーに価値あるサーヴィスを提供し、そこから収入を得るという方向性もあるということだ。
フルタイムの仕事があろうとなかろうと、これは出来る。
だから私は56歳からコードを書き始めたんだ。

テック業界にはもっと多くの女性が必要?デザインしよう。

「女性エンジニアの数は引き続き男性エンジニアを上回る」
「最もイノヴェイティヴな会社TOP10は今や全て女性が経営」
「研究によると投資家は女性ファウンダーを優遇」
冗談です。しかし、こんな見出しが本当になる未来を私たちはデザインできるでしょうか?
私たちはテーマが「はずみ」だったTEDWomen 2015にその挑戦を持ち込みました。750人以上の女性(と何人かの勇敢な男性)が、考え方や生き方、働き方について価値観を大きく変化させることができた並外れた人々の話を3日間にわたって聞きました。
テクノロジーベンチャーの世界では、誰も現状に満足していないのは明らかです。メディアでよく目にするCEOたちは特に。男女不平等の話 — より広く言えばテクノロジー業界でのダイヴァーシティーの欠如 — はいま熱い注目を集めています。
IDEOの私たちのチームはTEDやGreylock Partnersとパートナーシップを結び、女性のアントレプレナーたちにより良い機会を提供するため、テック業界のエコシステムをどのように変えられるかについてオープンで生産的な会話を始めようとしています。
もしデザインが問題解決のためにあるのなら、この問題に取り組むために使うべきでしょう。
もちろん、これが90分の昼食でサーモンを食べながら解決できる類の問題ではないことは分かっています。 ですが、私たちはこれがTEDWomenに参加した並外れた才能を持つ人々を集めるための見逃せない機会だということも分かっていました。経営幹部クラスや投資家からスタートアップのファウンダーやアントレプレナーまで。彼らはステージに上がった女性たち — シカゴの校長先生からマラウィのティーンエイジャーまで — が私たちに語りかける「はずみ」、それを生み出すのを助けてくれるはずです。
私たちは会話の方向性を設定するのを助けるために少し準備をしました。 IDEOではデザインは人から始まります。どんな女性が社会で仕事をしているか幅広い知見を得るため、私たちは成功した幾人かの女性のファウンダーに会社を立ち上げた経験について話してくれるように頼みました。最後の1人に至るまで全員がグループでシェアする価値のある「戦傷(いくさきず)」を持っていました。問題が明確になったのです。
進むべき方向を違わないために、私たちはアントレプレナーの旅をスティーヴ・ジソー風の航海にチャート化しました(TEDWomenのカンファレンスは結局モンテレイの海岸の町で開催されたのですが)。影響力を振るえるようになる過程で立ち寄る幾つかの港のようなものを書き足しもしました。

外洋は荒れている。アントレプレナーや特に女性にとっては。 Illustration: Jane Ha; Katie Clark
このチャートを背景として、私たちは幾つか「オープン・エンド型(回答者が自由に答えられる形式)」の質問をしました。
女性がアイデアから一気にアクションまで飛び越えるにはどう応援すれば良いか?
女性が自分の会社の価値を楽観的に評価できるためにどんなサポートができるか?
物の見方をシフトするためにどうすれば偏見を生産的なかたちで引き出すことができるだろうか?
ほとんどすぐに、アイデアが飛び出しました。
ここにほんの少し例を挙げます。これらがもっと多くの会話の足掛かりとなり、プロトタイプを生み出すきっかけになることを願って。
どのように交渉すれば良いかの戦略をアドバイスするアプリやホットライン。
透明性を保ちつつ自分への評価データを比較、共有できるシステム。
公共の場で大声で女性への偏見を叫ぶ「バッド・マナー」
「慈善のための営業部隊の1%の誓い」をモデルにした「ダイヴァーシティのための1%の誓い」

デザインは熱気に満ちたものでした。ランチに集った女性リーダーのみなさんが職場にアイデアを持ち帰って参考にして下さることを期待しています。
今回の議論で1番感動的だったのは、ある女性のヴェンチャー・キャピタリストが、「本物の変化をもたらすには、投資家がもっと多くの女性ファウンダーを応援し、小切手を切らなければダメよ」と言ったことでした。彼女が言いたかったのは「ヴェンチャー・キャピタリストとして1番レバレッジが効くのは誰に投資するかという点にある」ということです。それを聞くと誰もが頷いていました。
コーヒー・スタンドで互いに顔をあわせると、楽観的見方や希望、そして多くのアイデアがグループからどんどん飛び出してきて、カンファレンスの最後までそれらについて話し合われました。(私たちのアイデアのバブルは、TEDWomenカンファレンスのバナーの真下でタクシー運転手やバス・ドライバーから「そこの女の子たち」とか 「かわい子ちゃん」と声をかけられても割れませんでした)。
だから何?それで? (サンキュー、リンダ・クライアット・ウェイマン)
どうすれば私たちはテック業界にはびこる潜在的な偏見を克服したり、またはいっそ気にせず淡々と働くことができるでしょうか(アメリカ全体では59%の労働者が女性なのに対し、テック業界はわずか33%です)?社会のシステムに内在する偏見はかなり幼少の頃から始まります(例えば、学校に通う年齢の「女の子たち」には理系向け英才教育のSTEMは勧められなかったり)。毎日この流れに闘いを挑んでいるのですが、負け戦さです。
ファウンダーや会社のリーダーとしてより多くの女性が必要とされている理由は平等の実現のためではありません。単にビジネスとして有望だからです。財務実績のTOP20社では、27%のリーダーは女性です。小売業と接客業を代表する2つの会社における800のビジネス・ユニットを調べたギャラップ・スタディーによると、小売業においてジェンダーのダイヴァーシティが認められるビジネス・ユニットは認められないビジネス・ユニットよりも14%も高い収益を上げています。接客業ではもっと顕著です。19%も平均的な四半期の純利益を上回っていました。
誰でも「バイアス・ステッカー」や、仕事をする女性のためのホットラインのようなアイデアを生み出し、そこからうまくいくものといかないものを学べます。この記事の最初にまとめたようなヘッドラインが現実になる未来へ向けて実験をしましょう。
この話題について思うところがありましたら、私たちのIDEO Futures Podcastを聞いてみてください。他のアイデアがあるんですって?私たちに合図のフレアを送ってくださいね #HowMightWomen
未来は私たちのデザインと共にあります。

ヒューマニティー(人間性)を高めるデザイン

1950年、アメリカの心理学者ハリー・ハーロウ博士は生後わずか数時間のサルを母親から引き離してある実験を行いました。サルの子は引き離されて、それぞれ偽物の母ザルがいる檻に入れられたのです。
一方の檻では金属製のワイヤーで作られた母ザルがミルクの入った哺乳瓶を持っていました。また、他方の檻には布を被せて本物に似せて作られた母ザルがエサとなる物を何も持たずに入っていました。
直観的にハーロウ博士は子ザルが金属で出来た母ザルの方になつくと推測していました。食欲を満たしてくれる哺乳瓶を持っているからです。
しかし驚いたことに、子ザルは哺乳瓶を持っていない母ザルの方になついたのです。実のところ、この2体を隣同士に並べると、子ザルは金属製の母ザルの方でミルクを飲み、その後よりリアルなダミーの母ザルの方になついていったのです。

そして、肉体の成長に必要なあらゆる栄養が手に入ったものの、子ザルは成長するにつれて高いレベルの不安と攻撃性を示すようになってしまったのです。
この実験から明らかに分かるのは、ほとんどの生物が当面の肉体的欲求(食べ物や住む場所)を抱えてはいるものの、それが全てではなく感情面も同じように満たされる必要があるということです。
ハーロウ博士の子ザルがリアルな布製の母ザルになついたのは、ミルクよりも感情的な絆を切望していたからなのです。
外形(Form)、機能(Function)、感情(Feeling)

機能性はドアノブや椅子といったあらゆる製造物の中心となる概念です。私たちは問題を解決し、ニーズに応えるためにデザインします。かつて私たちがデザインした別の部屋へ楽に移動出来る通路や快適な座り心地の場所のような大したこともないものであっても変わりありません。
20世紀初頭にルイス・サリバンの「機能が外形に優先する。」という見解が世に広まって以来、これはデザインにおける根本的な論争の1つとして議論され続けています。
機能は多くのデザイナーにとって根本的に重要な要素でしょう。ですが、どれ程厳格に重視しなければならないものなのでしょうか?何人かは、例えばオーストリアの建築家であるアドルフ・ロースは『装飾と犯罪』で語っているような極端な装飾罪悪主義にまで行き着きました。
ここで少し具体的にお話するために、特に機能性に重点を置いた物を例に挙げてみましょう。リクライニングチェアの「レイジーボーイ(the La-Z-Boy)」はリラックス出来る快適さを重視してデザインされました。ふかふかのクッションから少しだけ昼寝をしたい時にシートを倒すためのサイド・ハンドルまで全て機能性を重視してデザインされています。余りにもあからさまに機能性を重視したデザインであるため、他に適当な言葉が見つからず「醜い」と呼ぶ人もいます。

その対極にあるのがピカソのチェアでしょう。イカしてはいるけれど傾いて座りづらく、「レイジーボーイ(the La-Z-Boy)」とは正反対の作品です。ピカソはこのチェアを実体化する前に紙にプロトタイプをスケッチしましたが、それはチェアというより折り紙の白鳥でした。機能と呼べるものは純粋な芸術美だったのです。その外形は2次元と3次元を面白おかしく弄んでいます。要するにこのチェアの実験的なデザインは機能的には何の役にも立たないのです。
外形と機能は普遍的なコンセプトなので、経験の浅いデザイナーは誰もが仕事に取りかかるにあたってまずこれらを考慮に入れます。しかし、デザインには効果を発揮する第3の肝となる要素があります。多くのデザイナーは無意識で取り入れているのかも知れませんが、彼らがデザイン思考(感情)を語る際には決して優先順位が高いものとして意識的に挙げられはしないものです。
機能性は多くのデザイナーにとって基本的かつ重要な要素です。しかし、どれ位厳格に機能性を重視しなければならないのでしょうか?
ピカソのチェアが人の心に訴えかけてくるのは、それが主として知的なものを追求し、美的精神やものの見方、外形そのものの意味を深めるきっかけとなるからです。
これをバート・ローシュナーのThe Waterproof Garden Chairと比べてみましょう。
この作品やシリーズの他の作品ではありふれたチェアを擬人化しています。このガーデンチェアがパティオに忘れ去られたままになっているのが目に入れば、その様子はただのチェアではなく何年も連絡を取らなかった孤独な旧友のように見えてきて、あなたはこの10年雨の中でガーデンチェアをひとりぼっちにさせたことを謝りたくなるでしょう。

感情に重きを置いている作品の全てがそこまであからさまに感情に訴えかけてくるわけではありません。なかには機能性と外形、そして感情の全体的なバランスを崩さずにそれらを取り込み、卓越した作品に仕上げるデザイナーもいます。
例えばハンス・J・ウェグナーと彼の作品のShell Chairなどは直ぐに頭に浮かんできます。美しく機能性が高いだけでなく、見た目にも心地良いラインやスマイルしている座板には何か私たちの感情を喚起するものがあります。落ち着き、快適さ、それに喜びでしょうか。

人と機械
誰かと初めて会った時、あなたが相手に対してまず感じるのは「どう機能するのか?」ではないはずです。「相手からどんか印象を受け取ったか?」ではないでしょうか。そして、後になって誰かにその人について聞かれたら、こう答えるはずです。「リラックスしていて頭が良く、ウィットに富んだ人だったよ。おまけにジョークが面白いんだ。」と。
命のないただの物については通常このような感じ方はあまりしないでしょう。ですが自分の持ち物を思い浮かべてみると、なぜか誰もが特に役立つわけでも見た目が麗しいわけでもない物を山ほど持っているはずです。
なぜ私たちはこんな物をいつまでも持っているのでしょうか?それには理由があります。私たちは他者との繋がりのなかで生きているのです。その繋がりではそれぞれの物が大切な意味を持つのです。
親友からのバースデープレゼント、大切な人との初めてのデータで観た映画の半券、こういった繋がりが、たとえ意識しなかったとしても、ただの物に新たな命を吹き込むのです。
誰かと初めて会った時、あなたが相手に対してまず感じるのは「どう機能するのか?」ではないはずです。「相手からどんか印象を受け取ったか?」ではないでしょうか。
感情的な結びつき(やその欠落)は現代では目に見えない通貨のような役割を果たしています。そして、広告エージェンシーが特に引き出すのが上手いジャンルでもあります。
トライデント・ガムの30秒スポットCMは外形(ガムそのもの)に関するものでも、機能(口臭を抑える)に関するものでもありません。心に訴えかける「体験(初デートでのキス)」を観る人に届けているのです。上手くいけば、何でもないグレーの砂糖のかたまりが、素敵な女性との思い出として繋がりを残す物に変わるでしょう。

1938年から2003年まで製造されたフォルクスワーゲン ビートルが自動車業界で史上最も売れたデザインだと聞いても特に驚くには値しません。この車は「国民車」として知られていて、親しみのある輪郭は漫画のキャラクターの目のようなヘッドライトと微笑みかけるバンパーが特徴的です。
あまりにも愛らしいデザインなのでディズニーがこの車を元に映画を撮ってしまったくらいです。人間のように考え、自走するビートルはHerbie the Love Bugと呼ばれました。

カー・デザイン研究者のサム・リビングトンによると、ビートルの人間臭さに私たちが惹かれる理由は深い所に根があるそうです。
「消費者は人の表情を読むようにある程度まで車の表情も読み取ろうとします。そこからドライバーが攻撃的か穏やかかそれともフレンドリーなのかといった様子を推測するのです。意識して車の表情を読み取るような真似はしないでしょうが、間違いなく無意識では気にしています。」

「老い」と「若さ」

人間の体はずっと同じということはありません。遅かれ早かれ赤ちゃんのようなさらさらな肌にシワが入っていき、体力も衰えていきます。これを怖いという人もいれば、何とも思わない人もいますが、どの人も最後はそうなっていきます。
それを恐れたりいやだと思う人は「若い」ことに価値を感じているのでしょう。特に日本では「若ければ若いほど良い」という価値観が根強いことに少し疑問を感じています。特に女性において。
「もう若くないんだから」と、20代で言う女性は多いですし(私も以前は使っていました)、「若いうちに・・・」という枕詞はよく使われます。もちろんどれも軽い意味で使われているのは知っていますが、日本の平均寿命のまだ半分も生きていないのに若くないとはこれからの人生はどう表現したらいいのでしょう。ずっと「おばさん」なのでしょうか。
海外や日本で活躍している素晴らしい女性たちに憧れますが、日本で一般的にいう「若い」という部類に入らない人たちがほとんどです。そしてそういう人たちを見ると、芯がしっかりして奥行きを感じさせる言葉や、見た目だけではなく、内側から出る生き様や美しさというものに目を惹かれます。不思議なことに、年をとればとるほど人を惹きつける魅力が増していきます。
「若い」時代というのは誰もが平等にあり、何の努力もしなくても与えられるものです。それは、そんなに特別なものなのでしょうか。
世間一般で言う「若く」無くなった時に、他とは違うものを持っているかどうか、それがその人をより特別にするのではないかと思います。
今もなおファッションアイコンとして多くの人に愛されているオードリー・ヘプバーンの言葉にこんなものがあります。
And the beauty of a woman, with passing years, only grows!

ケヴィン・ケリー x Slack 「感情的にAIを怖れるな」

スカイネットのような「ロボット・アポカリプス」への怖れを鎮めることが出来る男がいるとすれば、それはケヴィン・ケリーだ。WIREDの創刊編集長としてだけでなく、”What Technology Wants”や”Out of Control: The New Biology of Machines”、”Social Systems and the Economic World”等の著者として、ケヴィン・ケリーはテクノロジーの未来、そして進化し続けるテクノロジーと我々の関係性について21世紀で最も先見の明がある理論家、フューチャリストとして知られる。
彼の最新刊である”The Inevitable: Understanding the 12 Technological Forces that Will Shape Our Future”で、ケリーはテクノロジーの進歩について我々が止めどなく怯えを感じがちな風潮について書いている。
またSlackの直近のインタビューに対してケリーは、未来の仕事についての彼のヴィジョンがどのようなもので、我々がテクノロジーの進歩に根深い怯えを感じてしまうのは何故なのか説明してくれている。

オートメーション(自動化)やAIについてこれ程怯えを感じる人が多いのは何故でしょう?
知性というものは、我々のアイデンティティのまさに中核にある。だから誰かが「我々の知性を1つにし、それを他の何かにインストールする」なんて提案をすれば、それはまさに我々のアイデンティティを失わせることを意味してしまう。すると、「俺たちはこれからどうなるんだ?」となるわけさ。言い方を変えてみて「あれやこれやがずっと良くなる。」と言ってみたところで「もうゲーム・オーバーさ。」と返される。迷いのない短絡的思考だ。「私には価値がない。」「私は必要とされない。」と彼らは考える。
こういうシナリオ、つまり「AIが人間に取って代わる」的なのは、すごくハリウッドっぽいね。「ザ・ハリウッド映画」みたいだ。あまりにもストーリー展開が読めすぎて、他の展開の可能性がなかなか思いつけなくなるほどに。
私の著作では、AIの未来について別のシナリオを描こうとしている。誰にとっても悪くない未来で、ヒューマニティーが高められ、今より遥かに住みやすい世界についてだ。だが、言っておかなければならない。未来を描くのは簡単ではないんだ。様々なものが絡み合い、微妙に予測した姿から外れ、幾つもの可能性がある。ちょうどハリウッド映画にもリブート版があったりするようにね。だから、何か1つ確実に言えることがあるとすれば、それは「私たちはいずれ死ぬ。」ということくらいなんだ。
あなたはテクノロジーの未来について、私たち皆が永遠に初心者(newbies)となる終わりなきアップグレードの連続の世界として描いています。そこで伺いたいのですが、率直なところそれ程アップグレードし続ける必要はあるのでしょうか?
そうだな、私が示唆しているのは、これが人間という種にとって明らかな問題意識として顕在化して来ているということなんだ。我々は自分たちが生み出したテクノロジーに頼り切っているし、実際それが我々の生活を良くしてくれてもいる。ラーニング(learning)とリラーニング(relearning)、アンラーニング(unlearning)を可能にしてくれているんだ。これらのスキルは誰にとっても人としての中核をなす重要なものになるだろう。何をするにおいてもだ。
今では我々は新しい物事に直面したら、自分に無関係なものか、それとももっと詳しく知って自分がしている内容に関連付けられるのか判断しなければならない。そして、次に新しい何かが現れた時には古いものを捨てて前へ進む心構えが常に必要になる。これは子供の頃に学校で教わらなかったことだね。学校では教わる内容がハッキリとしていて「あなたが勉強しなければならないのはこれです。身につけましたね。よく出来ました。」といった感じだった。これからはそうは行かない。
幸せ全般や仕事から得られる満足の多くは、自分がエキスパートになったという感覚から得られるものです。我々皆が永遠に初心者(newbies)となるような世界では何かをマスターするということはどのような意味を持つようになるのでしょうか。また、テクノロジーの進歩のペースが上がると、何かについて本当に詳しくなったりマスターすることにどのような影響を与えるのでしょうか。
テクノロジーについての研究を進めるうちに、私は次のような事実に気付いて本当に驚いた。地球という惑星全体で見ると、廃れて消えた技術やテクノロジーはまだないんだ。1つもね。過去のどの時代よりも多くの鍛冶屋が現在活躍し、ハンドメイドで望遠鏡を作成し、火打ち石や矢じりを作成している。もちろんパーセンテージの話ではなく絶対数についてだがね。何が言いたいのかと言うと、テクノロジーが進歩しても何かをマスターしたいと思う気持ちが廃れるわけではないんだ。
これは特殊な職業についてだけでなく、どんな職業にも当てはまる。もしあなたがエクセルのスキルを持っていれば、これから長い長い間、確実に仕事はあるだろう。でも多くの人がエクセルで食べていけるかは分からない。未来ではスキルを持つ人をもっと簡単に見つけられるようになっているからだ。とは言えどんな事情があったとしても、2070年にもしエクセルを使える人が必要になったら世界に3人位はまだいるだろうね。
だが私個人の考えとしては、「マスターする」ことのほとんどはメタレベルに属するので、いずれマシーンが必要なものを与えてくれるようになるだろう。
マシーンが答えを与えてくれる未来、人間は何が出来るのかという問いこそが重要になる。
AIやそれに似たシステムによって多くの知識やスキルが得られるようになる。すると、状況に合った適切な人物の見つけ方や専門知識へのアクセスの仕方が簡単に分かるようになる。
あなたの著作では、仕事に意義を見出すことの大切さについても触れられています。これからは新しいツールやオンライン・プラットフォームが様々なコラボレーションを可能にするだろうと。そこで伺いたいのですが、これによって今まで人が伝統的に築き上げてきた仕事のやり方は今後どのように変化し、私たちは仕事をどう捉えるようになるのでしょうか。
世界の長期的なトレンドを分析すると、あらゆる事物が求心性を失い非中央集権化してきたのが分かる。
それ程多くの情報が流通していなかった以前であれば、中央集権的でトップダウンに命令が下されるのが最善の方法だった。
ローマ時代の軍隊では、末端の一兵卒まで厳格に規律に従う仕組みが出来上がっていた。なぜなら、情報の流れが限定されていたので盲目的に命令に従うのが規模の大きな集団では最善の方法だったのだ。
しかし、現在ではピア・ツー・ピアでコミュニケーションを取れるようになった。それが協力して仕事をしやすい環境を可能にしてくれている。私たちはコラボレーションをさらに上のレベルへと高め続け、今後仕事のあり方をコラボレーション中心の方向にシフトさせ続けることになるはずだ。
スケールが今よりももっともっと大きくなる。現在生まれつつあるテクノロジーは、数十億人規模のコラボレーションを可能にしつつある。それにより、1人1人の仕事の可能性も驚くほど広がっていくだろう。
それが、我々が今まで想像することすら出来なかった数多くの未知への挑戦を可能にするのだ。

 

ケヴィン・ケリー x Slack 「感情的にAIを怖れるな」

スカイネットのような「ロボット・アポカリプス」への怖れを鎮めることが出来る男がいるとすれば、それはケヴィン・ケリーだ。WIREDの創刊編集長としてだけでなく、”What Technology Wants”や”Out of Control: The New Biology of Machines”、”Social Systems and the Economic World”等の著者として、ケヴィン・ケリーはテクノロジーの未来、そして進化し続けるテクノロジーと我々の関係性について21世紀で最も先見の明がある理論家、フューチャリストとして知られる。
彼の最新刊である”The Inevitable: Understanding the 12 Technological Forces that Will Shape Our Future”で、ケリーはテクノロジーの進歩について我々が止めどなく怯えを感じがちな風潮について書いている。
またSlackの直近のインタビューに対してケリーは、未来の仕事についての彼のヴィジョンがどのようなもので、我々がテクノロジーの進歩に根深い怯えを感じてしまうのは何故なのか説明してくれている。

オートメーション(自動化)やAIについてこれ程怯えを感じる人が多いのは何故でしょう?
知性というものは、我々のアイデンティティのまさに中核にある。だから誰かが「我々の知性を1つにし、それを他の何かにインストールする」なんて提案をすれば、それはまさに我々のアイデンティティを失わせることを意味してしまう。すると、「俺たちはこれからどうなるんだ?」となるわけさ。言い方を変えてみて「あれやこれやがずっと良くなる。」と言ってみたところで「もうゲーム・オーバーさ。」と返される。迷いのない短絡的思考だ。「私には価値がない。」「私は必要とされない。」と彼らは考える。
こういうシナリオ、つまり「AIが人間に取って代わる」的なのは、すごくハリウッドっぽいね。「ザ・ハリウッド映画」みたいだ。あまりにもストーリー展開が読めすぎて、他の展開の可能性がなかなか思いつけなくなるほどに。
私の著作では、AIの未来について別のシナリオを描こうとしている。誰にとっても悪くない未来で、ヒューマニティーが高められ、今より遥かに住みやすい世界についてだ。だが、言っておかなければならない。未来を描くのは簡単ではないんだ。様々なものが絡み合い、微妙に予測した姿から外れ、幾つもの可能性がある。ちょうどハリウッド映画にもリブート版があったりするようにね。だから、何か1つ確実に言えることがあるとすれば、それは「私たちはいずれ死ぬ。」ということくらいなんだ。
あなたはテクノロジーの未来について、私たち皆が永遠に初心者(newbies)となる終わりなきアップグレードの連続の世界として描いています。そこで伺いたいのですが、率直なところそれ程アップグレードし続ける必要はあるのでしょうか?
そうだな、私が示唆しているのは、これが人間という種にとって明らかな問題意識として顕在化して来ているということなんだ。我々は自分たちが生み出したテクノロジーに頼り切っているし、実際それが我々の生活を良くしてくれてもいる。ラーニング(learning)とリラーニング(relearning)、アンラーニング(unlearning)を可能にしてくれているんだ。これらのスキルは誰にとっても人としての中核をなす重要なものになるだろう。何をするにおいてもだ。
今では我々は新しい物事に直面したら、自分に無関係なものか、それとももっと詳しく知って自分がしている内容に関連付けられるのか判断しなければならない。そして、次に新しい何かが現れた時には古いものを捨てて前へ進む心構えが常に必要になる。これは子供の頃に学校で教わらなかったことだね。学校では教わる内容がハッキリとしていて「あなたが勉強しなければならないのはこれです。身につけましたね。よく出来ました。」といった感じだった。これからはそうは行かない。
幸せ全般や仕事から得られる満足の多くは、自分がエキスパートになったという感覚から得られるものです。我々皆が永遠に初心者(newbies)となるような世界では何かをマスターするということはどのような意味を持つようになるのでしょうか。また、テクノロジーの進歩のペースが上がると、何かについて本当に詳しくなったりマスターすることにどのような影響を与えるのでしょうか。
テクノロジーについての研究を進めるうちに、私は次のような事実に気付いて本当に驚いた。地球という惑星全体で見ると、廃れて消えた技術やテクノロジーはまだないんだ。1つもね。過去のどの時代よりも多くの鍛冶屋が現在活躍し、ハンドメイドで望遠鏡を作成し、火打ち石や矢じりを作成している。もちろんパーセンテージの話ではなく絶対数についてだがね。何が言いたいのかと言うと、テクノロジーが進歩しても何かをマスターしたいと思う気持ちが廃れるわけではないんだ。
これは特殊な職業についてだけでなく、どんな職業にも当てはまる。もしあなたがエクセルのスキルを持っていれば、これから長い長い間、確実に仕事はあるだろう。でも多くの人がエクセルで食べていけるかは分からない。未来ではスキルを持つ人をもっと簡単に見つけられるようになっているからだ。とは言えどんな事情があったとしても、2070年にもしエクセルを使える人が必要になったら世界に3人位はまだいるだろうね。
だが私個人の考えとしては、「マスターする」ことのほとんどはメタレベルに属するので、いずれマシーンが必要なものを与えてくれるようになるだろう。
マシーンが答えを与えてくれる未来、人間は何が出来るのかという問いこそが重要になる。
AIやそれに似たシステムによって多くの知識やスキルが得られるようになる。すると、状況に合った適切な人物の見つけ方や専門知識へのアクセスの仕方が簡単に分かるようになる。
あなたの著作では、仕事に意義を見出すことの大切さについても触れられています。これからは新しいツールやオンライン・プラットフォームが様々なコラボレーションを可能にするだろうと。そこで伺いたいのですが、これによって今まで人が伝統的に築き上げてきた仕事のやり方は今後どのように変化し、私たちは仕事をどう捉えるようになるのでしょうか。
世界の長期的なトレンドを分析すると、あらゆる事物が求心性を失い非中央集権化してきたのが分かる。
それ程多くの情報が流通していなかった以前であれば、中央集権的でトップダウンに命令が下されるのが最善の方法だった。
ローマ時代の軍隊では、末端の一兵卒まで厳格に規律に従う仕組みが出来上がっていた。なぜなら、情報の流れが限定されていたので盲目的に命令に従うのが規模の大きな集団では最善の方法だったのだ。
しかし、現在ではピア・ツー・ピアでコミュニケーションを取れるようになった。それが協力して仕事をしやすい環境を可能にしてくれている。私たちはコラボレーションをさらに上のレベルへと高め続け、今後仕事のあり方をコラボレーション中心の方向にシフトさせ続けることになるはずだ。
スケールが今よりももっともっと大きくなる。現在生まれつつあるテクノロジーは、数十億人規模のコラボレーションを可能にしつつある。それにより、1人1人の仕事の可能性も驚くほど広がっていくだろう。
それが、我々が今まで想像することすら出来なかった数多くの未知への挑戦を可能にするのだ。