ishibashihiroki’s blog

経済アナリスト

ヒューマニティー(人間性)を高めるデザイン

1950年、アメリカの心理学者ハリー・ハーロウ博士は生後わずか数時間のサルを母親から引き離してある実験を行いました。サルの子は引き離されて、それぞれ偽物の母ザルがいる檻に入れられたのです。
一方の檻では金属製のワイヤーで作られた母ザルがミルクの入った哺乳瓶を持っていました。また、他方の檻には布を被せて本物に似せて作られた母ザルがエサとなる物を何も持たずに入っていました。
直観的にハーロウ博士は子ザルが金属で出来た母ザルの方になつくと推測していました。食欲を満たしてくれる哺乳瓶を持っているからです。
しかし驚いたことに、子ザルは哺乳瓶を持っていない母ザルの方になついたのです。実のところ、この2体を隣同士に並べると、子ザルは金属製の母ザルの方でミルクを飲み、その後よりリアルなダミーの母ザルの方になついていったのです。

そして、肉体の成長に必要なあらゆる栄養が手に入ったものの、子ザルは成長するにつれて高いレベルの不安と攻撃性を示すようになってしまったのです。
この実験から明らかに分かるのは、ほとんどの生物が当面の肉体的欲求(食べ物や住む場所)を抱えてはいるものの、それが全てではなく感情面も同じように満たされる必要があるということです。
ハーロウ博士の子ザルがリアルな布製の母ザルになついたのは、ミルクよりも感情的な絆を切望していたからなのです。
外形(Form)、機能(Function)、感情(Feeling)

機能性はドアノブや椅子といったあらゆる製造物の中心となる概念です。私たちは問題を解決し、ニーズに応えるためにデザインします。かつて私たちがデザインした別の部屋へ楽に移動出来る通路や快適な座り心地の場所のような大したこともないものであっても変わりありません。
20世紀初頭にルイス・サリバンの「機能が外形に優先する。」という見解が世に広まって以来、これはデザインにおける根本的な論争の1つとして議論され続けています。
機能は多くのデザイナーにとって根本的に重要な要素でしょう。ですが、どれ程厳格に重視しなければならないものなのでしょうか?何人かは、例えばオーストリアの建築家であるアドルフ・ロースは『装飾と犯罪』で語っているような極端な装飾罪悪主義にまで行き着きました。
ここで少し具体的にお話するために、特に機能性に重点を置いた物を例に挙げてみましょう。リクライニングチェアの「レイジーボーイ(the La-Z-Boy)」はリラックス出来る快適さを重視してデザインされました。ふかふかのクッションから少しだけ昼寝をしたい時にシートを倒すためのサイド・ハンドルまで全て機能性を重視してデザインされています。余りにもあからさまに機能性を重視したデザインであるため、他に適当な言葉が見つからず「醜い」と呼ぶ人もいます。

その対極にあるのがピカソのチェアでしょう。イカしてはいるけれど傾いて座りづらく、「レイジーボーイ(the La-Z-Boy)」とは正反対の作品です。ピカソはこのチェアを実体化する前に紙にプロトタイプをスケッチしましたが、それはチェアというより折り紙の白鳥でした。機能と呼べるものは純粋な芸術美だったのです。その外形は2次元と3次元を面白おかしく弄んでいます。要するにこのチェアの実験的なデザインは機能的には何の役にも立たないのです。
外形と機能は普遍的なコンセプトなので、経験の浅いデザイナーは誰もが仕事に取りかかるにあたってまずこれらを考慮に入れます。しかし、デザインには効果を発揮する第3の肝となる要素があります。多くのデザイナーは無意識で取り入れているのかも知れませんが、彼らがデザイン思考(感情)を語る際には決して優先順位が高いものとして意識的に挙げられはしないものです。
機能性は多くのデザイナーにとって基本的かつ重要な要素です。しかし、どれ位厳格に機能性を重視しなければならないのでしょうか?
ピカソのチェアが人の心に訴えかけてくるのは、それが主として知的なものを追求し、美的精神やものの見方、外形そのものの意味を深めるきっかけとなるからです。
これをバート・ローシュナーのThe Waterproof Garden Chairと比べてみましょう。
この作品やシリーズの他の作品ではありふれたチェアを擬人化しています。このガーデンチェアがパティオに忘れ去られたままになっているのが目に入れば、その様子はただのチェアではなく何年も連絡を取らなかった孤独な旧友のように見えてきて、あなたはこの10年雨の中でガーデンチェアをひとりぼっちにさせたことを謝りたくなるでしょう。

感情に重きを置いている作品の全てがそこまであからさまに感情に訴えかけてくるわけではありません。なかには機能性と外形、そして感情の全体的なバランスを崩さずにそれらを取り込み、卓越した作品に仕上げるデザイナーもいます。
例えばハンス・J・ウェグナーと彼の作品のShell Chairなどは直ぐに頭に浮かんできます。美しく機能性が高いだけでなく、見た目にも心地良いラインやスマイルしている座板には何か私たちの感情を喚起するものがあります。落ち着き、快適さ、それに喜びでしょうか。

人と機械
誰かと初めて会った時、あなたが相手に対してまず感じるのは「どう機能するのか?」ではないはずです。「相手からどんか印象を受け取ったか?」ではないでしょうか。そして、後になって誰かにその人について聞かれたら、こう答えるはずです。「リラックスしていて頭が良く、ウィットに富んだ人だったよ。おまけにジョークが面白いんだ。」と。
命のないただの物については通常このような感じ方はあまりしないでしょう。ですが自分の持ち物を思い浮かべてみると、なぜか誰もが特に役立つわけでも見た目が麗しいわけでもない物を山ほど持っているはずです。
なぜ私たちはこんな物をいつまでも持っているのでしょうか?それには理由があります。私たちは他者との繋がりのなかで生きているのです。その繋がりではそれぞれの物が大切な意味を持つのです。
親友からのバースデープレゼント、大切な人との初めてのデータで観た映画の半券、こういった繋がりが、たとえ意識しなかったとしても、ただの物に新たな命を吹き込むのです。
誰かと初めて会った時、あなたが相手に対してまず感じるのは「どう機能するのか?」ではないはずです。「相手からどんか印象を受け取ったか?」ではないでしょうか。
感情的な結びつき(やその欠落)は現代では目に見えない通貨のような役割を果たしています。そして、広告エージェンシーが特に引き出すのが上手いジャンルでもあります。
トライデント・ガムの30秒スポットCMは外形(ガムそのもの)に関するものでも、機能(口臭を抑える)に関するものでもありません。心に訴えかける「体験(初デートでのキス)」を観る人に届けているのです。上手くいけば、何でもないグレーの砂糖のかたまりが、素敵な女性との思い出として繋がりを残す物に変わるでしょう。

1938年から2003年まで製造されたフォルクスワーゲン ビートルが自動車業界で史上最も売れたデザインだと聞いても特に驚くには値しません。この車は「国民車」として知られていて、親しみのある輪郭は漫画のキャラクターの目のようなヘッドライトと微笑みかけるバンパーが特徴的です。
あまりにも愛らしいデザインなのでディズニーがこの車を元に映画を撮ってしまったくらいです。人間のように考え、自走するビートルはHerbie the Love Bugと呼ばれました。

カー・デザイン研究者のサム・リビングトンによると、ビートルの人間臭さに私たちが惹かれる理由は深い所に根があるそうです。
「消費者は人の表情を読むようにある程度まで車の表情も読み取ろうとします。そこからドライバーが攻撃的か穏やかかそれともフレンドリーなのかといった様子を推測するのです。意識して車の表情を読み取るような真似はしないでしょうが、間違いなく無意識では気にしています。」